15号室 蜃気楼のように
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
男は、彼女を探していた。彼女というのはもちろん、男の恋人の事である。いや。
恋人『だった』と言った方が、正しいのかもしれない。ある日突然、彼女は男に
別れを告げて姿を消してしまった。
「私を本当に好きなら、もう一度私を探して」という、謎の言葉を残して。
「う〜ん……本当に謎ですねぇ」男から大まかな話を聞いた探偵は、ふぅむと
唸って腕を組んだ。「彼女が突然姿を消すような原因とか、何か心当たりは
ありませんか?」
恋人がいなくなったのは、約二週間ほど前。その間にありとあらゆる原因や、
彼女が行きそうな場所を探したのだろう。すっかり元気をなくし、憔悴しきって
いた男だったが探偵の質問にははっきりと首を横に振った。
「いいえ。彼女が姿を消す前までは、僕達とても上手くやっていました。
ケンカらしいケンカもしたことなかったし。……結婚の約束だってしてたのに
どうしてこんな事になってしまったのか、ワケが分からなくて」
眉を寄せながらそう言った男に、探偵が顔を上げる。
「それだ」「……え?」 つられて顔を上げた男を、探偵は指差す。
「結婚の約束をしたと、おっしゃいましたね。もしかして、それが原因なんじゃ
ありませんか」
「そんな馬鹿な。プロポーズして指輪を渡した時、彼女は喜んで受け取って
くれたんですよ」
「いやいや、分かりませんよ。急に気が変わったのかもしれない。
それを貴方に言うことが出来ずに姿を消してしまった……」
「そんな……」
今にも泣きそうな顔になった男に、探偵はちょっと意地悪が過ぎたかなと
心の中でぴろりと舌を出した。
「今のはあくまでも、僕の推論の一つです。まだ本当の事は何も分かって
いないでしょう。そう気落ちなさらないで下さい」
 
表面上では気の毒そうな表情を作りながら、助け舟を出してやった探偵。
そんな彼に、男は小さな声で「はぁ」とだけ返事をした。
「質問を続けます。彼女が行きそうな場所には行きましたか」
「もちろん。心当たりの場所には全部行きました……でも」
「彼女はいなかった、と」
言葉を引き継いだ探偵に頷きながらも、男はどこか落ち付かないように視線を
さ迷わせている。探偵は、それを見逃さなかった。
「何か、気になる点でも?」
「それが……おかしいんです」
「おかしい、というのは?」
「思い付く限りの彼女の友人や知人を探し出して、心当たりはないかどうか
聞いたんです。でも、皆揃って「そんな人は知らない、記憶にない」って
言うんです」
「それは……彼女が皆に頼んで、口裏を合わせてもらったという風にも取れますが」
男は探偵の言葉をすぐさま否定した。
「いいえ。名前を言っても写真を見せても、覚えがないって言うんですよ。とても
嘘をついているようには、見えませんでした。
何だか、そう……彼女に関する記憶だけがごっそりと、皆の中から消去されて
しまった感じで」
探偵の眉が、ぴくりと動いた。彼はそのまま何かを考えるように難しい顔をして
いたが、やがて男へ視線を向けた。
「彼女の友人達から、彼女の記憶だけが消去されてしまっているようだと
言いましたね」
「はい。でもそれは、あくまで僕の考えで……」
「いや、あるんですよ。実際にね」
強引に言葉を割りこませた探偵に、男は目を見開いた。
「どういう、事ですか」
そう聞き返してくるのは分かりきっていただろうに、今度は探偵の方が
言いにくそうに視線をさ迷わせる。男は、ますます怪訝そうな顔になった。
「何か……何か、知っているんですね。教えてください! 彼女が消えた原因が、
わかったんでしょ
「…………分かりました、教えましょう。その前に、一つ貴方に聞いておかなくては
ならないことがあります」
探偵はワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと一本口にくわえ、火をつけた。
男をじらすようにゆっくりと煙を吸いこみ、吐き出すと、口を開いた。
「彼女は貴方の前から姿を消す前に、「私を本当に好きなら、もう一度私を探しに
来て」と言ったんですよね」
「えぇ」
「今更確かめるまでもないかもしれませんが、もし彼女の居場所が分かったなら、
貴方は彼女を迎えに行きますか?」
「もちろんです」
「例えどんなに、困難なところでも?」
「はい」
 
きっぱりと頷いた男を、探偵はまっすぐ見つめた。澄んだ瞳に迷いの色は、ない。
「そこまで言い切るのなら、大丈夫かも知れませんね」
口元に微笑みを浮かべる探偵に、男の表情がちょっと暗くなる。
「あの……彼女がいる所は、そんなに危険な所なんですか?」
「何です、怖くなりました?」
「違いますよ! そんな風にもったいぶって言うから……!」
さっさと話せと促され、探偵は「これは失礼」と小さく言って、煙草を灰皿に
押し付けた
「蜃気楼って、ご存知ですか」
「遠くの景色が近くにあるように見えるって言う、現象のことですか」
あまりにも唐突な質問にしどろもどろになりながらも答えた男に、探偵は
満足そうに頷いた。
「まず結論から言いますと、彼女はその蜃気楼の『中』にいます」
「はぁ?」
蜃気楼は、あくまでも幻だ。その中に入る事など出来るはずがない。
思いきり眉をしかめる男に、探偵は言った。
「正確には蜃気楼として映った世界の中ですけど、ね」
「あの……言ってる意味がよく分からないんですけど」
「それじゃ、もう少し簡単に言います。ようするに、僕達が今いる『世界』と
とてもよく似た世界が、異なる次元にもう一つ存在するんですよ。
それがごくまれに蜃気楼のような幻となって、この世界に現れる事があるんです」
「……彼女はその、もう一つの世界にいるって言うんですか」
「そうです」
「…………」
にわかには信じられない話だ。今まで超常現象の類とは縁がなかった男に
とっては、尚更だろう。不信感を隠そうともせずに顔に出す男に、探偵は
苦笑を洩らした。
「まあ、信じる信じないは貴方の自由ですよ。でもね、彼女がもう一つの世界へ
帰らざるを得ない状況になかったなら、貴方に謎の言葉を残して突然姿を
消したり、お友達から自分に関する記憶を抜き取る必要もなかったはずでしょう」
「…………」
 どうやって記憶を抜き取ったのかは分からないが、探偵の言っている事は正しい、
と男は感じた。しばらく考えた後、男は顔を上げた。
「そのもう一つの世界へ行くには、どうしたら良いんですか」
 
地平線にうっすらと浮かぶ蜃気楼。見覚えのある町並みに、男はほっと肩の力を
抜いた。見付けた…………やっと」この一ヶ月間、探して探して、ようやく
見付けた。もう一つの世界への、入り口。こことよく似た世界。そこに、
彼女がいるという。男は探偵の言った事を思い出しながら、目を閉じてゆっくりと
歩き出した。強く念じなさい。もう一つの世界へ行きたいと。彼女に会いたいと。
迷いは禁物です。少しでも迷えば、全く別の所へ飛ばされてしまいますよ。
男に、迷いはなかった。彼女に会いたいとだけ心で念じて、歩き続ける。
そして。彼の姿はゆっくりと薄れ始め、やがて消えていった。蜃気楼のように。
その後、男は彼女と再会する事が出来たのか。元の世界へ戻る事は出来たのか。
全ては、本人だけが知っている。
 
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